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賄賂を受け取ってはならない [キリスト教に関すること]

あなたは賄賂を受け取ってはならない。

賄賂は目の見える人を見えなくし、

正しき者の言い分をゆがめるからである。

(旧約聖書 出エジプト記 23章 8節)


愛煙家がタバコを吸っている人に

「タバコの火をかして!」という姿を見かけます。

たとえタバコの火でも、火を貸してくれた人に用事を言いつけられると

不本意でも断るのは難しいでしょう。


世の有様を伝える職業の人は、真実を伝えるためには

為政者や権力者などの招待に与るべきではなく、
もし与ったならばそれ相当の金品を払ってくるべきではないでしょうか。


また職場で出世や給与、有利な立場にしてもらうために、

長上に賄賂を贈ったり

贈らなくても、長上に便宜を図ったり、長上の意向に沿うような行動は

正常な判断力をなくし、正義に反することだから、

してはいけない、ということだと思います。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。

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放蕩息子 [キリスト教に関すること]

聖書の放蕩息子のたとえ話は有名なので題名ぐらいは聞いたことがあると思います。

その全文を掲載します。


ルカによる福音書 15書11-32節

イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


この例えばなしには、たくさんの教訓が含まれています。

何回読んでも、心に感じるものが違います。

今回は、深層に隠れている僕を、兄の状況が表しているので、ドキッとしました。

自分の非よりも、他人の非を厳しく攻め、赦すことをためらい

他人の懐に入っていこうとしない頑な自分がいる。


公共秩序を守り、人から批判されるようなことはしない、ボランティア活動にも参加し

自分の意見や行動は正義感に満ち、他人から批判されたりするのを嫌う。


こういう気持ちでいること自体、もうすでに死んでいる

弟のように謙虚になり、片意地をはらない素直な人間にならなければ、

喜んで周囲の人に受け入れられる「生きている人」になれないのではなかろうか。

 

自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません

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聖職者による性的虐待の防止と謝罪 [キリスト教に関すること]

今日、日本のカトリック教会は

カトリック聖職者による性的虐待受けた人たちへの謝罪と償いの日

と定めていて

札幌司教区(北海道)は立場や権力による虐めや嫌がらせを受けた人たちの

相談にも受け付けています。


過去にも、カトリック聖職者による性的虐待が報道機関などに取り上げられ

失職余儀なくされている司教や司祭たちがいます。

また、事実と異なる風評被害で、深く思い悩んでいる聖職者もいます。


カトリックでは2月27日から4月12日(毎年変わります)の復活祭までを四旬節として

復活祭を迎える心の準備をしています。

その第二金曜日が「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」です。


キリスト教のシンボルといえば十字架

11月に来日した教皇も首に「♰」をさげていました。

僕が思うに「十」はプラス記号であって、決してマイナス記号ではありません。

カトリック教会において、聖職者による性的虐待という破廉恥行為をなくし

完全なものになりたいと常に前進(十 プラス)しています。

後ずさりはしていません。


もし被害に遭われたなら、勇気がいりますが悩まずに

お近くのカトリック教会(場所は選びません)の主任司祭に

相談してみてください。

秘密厳守で献金、宗教の勧誘、物品、定期刊行物などの購入は

強いられることがありませんのでご安心ください。


札幌司教区の資料です

3.13ハラスメント防止.jpg


IMG_20200313_0001.jpg


今日はカトリック教徒の一員として、

被害に遭われた人たちへの償いと祈りの一日とします。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。



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皆に仕えるもの [キリスト教に関すること]

今日のミサで朗読される聖書の一部です。
(新型コロナの拡大を防ぐために
日本の殆どのカトリック教会は暫くミサを休んでいます)


マタイによる福音 20章 26・27節

なたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。


中学生の時に、某クラス担任の先生は生徒に人気がありました。

そのクラスは、

授業が終わり下校時間になっても殆ど帰る生徒はいません。

なぜかといいますと、

某先生が用事がない限り2時間弱の自習時間が始まるのです。

某先生は、上から教えるというのではなく

みんなと一緒に学ぶという気持ちで生徒の勉強をみてあげます。

科目を問わず、生徒が分からない箇所があれば、

担当科目の教師に差障りの無い範囲で、

生徒と一緒に理解するようにしていました。


某先生は修道士でもあったので、聖書の教えの通りに

生徒に仕えるという気持ちで

教職についていたのではないかと思います。


今日のミサの聖句で、

叱ることがあっても、怒らないでいつも柔和な顔で生徒に接していた

某先生を思い出しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。



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有言実行が大切 [キリスト教に関すること]

今日のミサで朗読される聖書の一部です。
(新型コロナの拡大を防ぐために
日本の殆どのカトリック教会は暫くミサを休んでいます)


マタイによる福音 23章 1節ー4節、6-7節



それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。

しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。

言うだけで、実行しないからである。

彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、

自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、

また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。


律法学者やファリサイ派の人々がモーセの座についているというのは

彼らはモーセが神から授かった戒め、

つまり「十戒」を教え指導する立場にありました。


イエス様は、

この指導や教え自体はよいので守り、言われたとおりに実行しなさい、と

教えます。

しかし、彼らの行いを真似をしてはいけません。

なぜならば彼らは、人々に実行しなさいと人に重荷を背負わせますが

彼らは言ったことを自ら実行しないからです。

つまり有言不実行です。


世界各国で新型コロナを撲滅させるために、一所懸命です。


日本政府も宴会、不特定多数が集まる劇場や遊技場、

飲食店などの出入りを自粛するよう要請しています。


それなのに自粛要請している側は、

お店で飲食をしたり、誕生会、ゴルフなどをしています。

こういう宴席では「先生」などと呼ばれうきうきしているのかもしれません。

情報収集のための会食であって宴会ではない、などの言葉は

自分たちの身分や立場上、

率先して自粛要請を実行推進すべきだと弁えていたならば、

こんな屁理屈は口に出ないと思います。


有る日、子供対象のミサで司祭が説教していました。

「如何わしいビデオや写真などを見ないように、

隠れて観ていても神様はそれをちゃんとご覧になっています」

しかし、子供たちのなかに

「自分だってさ、あの店にビデオを借りに行ったじゃねえか」

とニヤニヤしながら聞いている子がいました。

複数の子どもがビデオを借りるところを見ていたようです。

たとえ、説教のための資料にしようとしたとしても、言い訳は通らず

説教の説得力もありません。


よい言葉よりも、よい行いを実行することが大切、なんですね。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。

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道義的責任 [キリスト教に関すること]

ルカによる福音書 6章 38節

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。

押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、

ふところに入れてもらえる。

あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

今日のミサで朗読される聖書の一部です。


ここでいう量りとは、

人それぞれの立場にある良心から出る深い憐れみと思いやりと解釈しました。

良心は神からの声です。

先日の大雪で道路は雪解け水になっているところがあります。

速度を守って走行していても、

場合によっては泥水を跳ねて歩行者にかかるかもしれないので

速度を落として走るのが思いやりです。

速安全運転義務違反になるから、と走行注意するのもいいですが

神様はそれ以上のことを望んでおられます。


為政者の自分たちの行為が「法的には何ら問題無い」という

弁明を聞くことがあります。

また会社で人の上に立つ人が、

社内規則を守っている範囲であればどんなことでも許される、と

旨をはっている人がいる限りその会社は伸びません。

法律・校則・社内規則・道路交通法などは最低限守るべき決まりごとで

それを遵守しているからと、

言い訳をしたりするのは良心に逆らっていませんか。


与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる

憐れみと思いやりの量りをもって行動すれば、

愛である神様は、その量り以上のお恵みをくださると解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。



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正直な取引 [キリスト教に関すること]

主は人を欺く秤をいとい

正確な量り石を喜ばれる。

旧約聖書 箴言11章 1節


スーパーマーケットで、晩酌のおつまみにマグロのお刺身を買うことがあります。

ラップの上から見ると、筋もないし美味しそうに見えるので買って帰り

いざラップを剥がしてお皿に盛ろうとすると、
縞模様の筋肉や細切れの端肉などが
埋もれているのがあります。

また宗八カレイ3枚入りのも、一番上に形が良いのがあり、
その下には痩せたのが隠れていたりします。

うわべだけごまかしているのです。


いまの秤は殆どがデジタルですが、その前はバネ秤や台座秤などがありました。
量り売りの店は、バネの強さを調整したり、
或いは台座の重りを変えたりして不正な量りをしていけない。

雇い主は、賃金を労働者に正しく払いなさい。

納税者は正しく納税額を申告し納めなさい。

カンニングはしない。


神様は、正しい人の心の秤を喜ばれます。

と解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。

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心を空っぽにする [キリスト教に関すること]

自分の心を空っぽにしなさい。

そうすれば、

落ち着いて神と自分の霊魂の問題を話し合うことができます。

ドン・ボスコ社刊「聖フランシスコ・サレジオのすすめ」より


なるべく起床時から2時間前後は、聖書を読んだり、或いは毎日のミサ、
教会の祈りなどを唱え、自分の霊魂を見つめ直すようにしています。
が、心の中は雑念で溢れていて思うようにいきません。
唱えた個所を黙想していても、すぐに関係ないことを思い浮かべてしまい
どんな黙想をしていたのかもわからなくなる始末。
例えば、朝食の味噌汁の具は何にするか、
魚を解凍するのを忘れてしまった、
この降っている雪はどのぐらい積もるのかなぁ、
昨日Aさんに返すべきものを返し忘れたなどなどです。
我に返り「神よ私を力づけ、急いで助けに来てください」
と祈り、しばらくは、心の中を空っぽにすることができます。
空っぽにした僕の心の神殿に神様が入ってきて、
あたりを見回して、汚れたさまをご覧になるのを心の中で分かると
今日は、同じ汚れで心の中を汚しませんと、
神様に約束しますが守れることは少ないです。
「心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。」
マタイによる福音書 5章 3節
心の貧しい人は、貪欲、高慢、欺瞞、不従順などの心を持たず
心を清くし、神様の神殿としていつでも受けいれる用意があります。
いつも、よからぬことで、僕の霊魂は満たされているので
なかなか落ち着いて神様とお話しすることができません。
いつも、明日こそ神様と自分の霊魂について話そう、
で終わってしまう意志薄弱で優柔不断な風太郎をお許しください。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。

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神と人との平和な関係を保つ [キリスト教に関すること]

神との平和な関係を持たない者は、

自分自身との平和な関係もなく、

他の人々の平和な関係も保てません。

ドン・ボスコ社刊「ドン・ボスコのことば100」より


富士山麓の忍野八海は、
富士山からの雪解け水が20数年かけて濾過されて湧いてくるそうです。

水が澄んでいるので、

泉を覗き込んでもそれほど深くないように見えますが

予想外に深いので八つの泉は柵がしてあり、

その中で魚が悠々と泳いでいます。


私たちも神様の愛という泉に流れ込むためには、

心の不純物を濾過し、


自分の心の中にある汚れ

(邪な考え、貪欲、利己的、平気で嘘を言う、傲慢など)を濾過し

透明で澄んだ清い心になり、

浅いようで深い神の愛という泉に飛び込めば、

神の無限の愛を知ることができます。

その結果平和な気持ちなり、

人との争いもなくなると解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。


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自分の心を悪で覆ってはいけません [キリスト教に関すること]

今日のミサで朗読される聖書の一部です。


マルコによる福音書 8:22-26
人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。

イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、

両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。

すると、盲人は見えるようになって、言った。

「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、

よく見えてきていやされ、

何でもはっきり見えるようになった。

イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。


盲人の目を「心の目」と置き換えてみました。

自分の欠点を見ないようにしたり、悪いことをしていても

「このぐらいはいいだろう」

などと自分で自分の心を見えないようにしてしまいます。

最初はうすぼんやりと悪いとだと認識していたが、

それが日常化してくると徐々に心の目は闇に包まれ、

自分が行っている欠点や悪態が周りの人からは、嫌がられるようになり

人々の中には注意したり、或いは叱り、忠告します。

その時には、「これではいけない」と心の目が開き、光が射してきます。

しかし、まだぼんやりとしか心の目は開いていないので、

再び自分に負けそうになるときに

心ある人々が忠告したりして心の目を開いてくれる時に、

前よりもはっきりと自分の心の目は開き、より一層闇の世界から解放されます。

その時に「自分自身が見えます」「自分のいたらなさがはっきり見えます」

という自覚されたならば、神様は小さな奇跡を起こされたことになります。


「この村に入ってはいけない」とは

せっかく「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し」たのです。

だから、心の目が見えなくなるような生活をしてはいけません。


悪友や悪い環境、甘い誘惑、権力横暴などに負けず

しっかりと心の目を開けて、毅然として義の態度で過ごしなさい。

と解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。


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