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神を愛する人 [キリスト教に関すること]


わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。

目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

一ヨハネの手紙 4章 19-21節



「ママ大好き」

「パパ大好き」

外国では「大好き」ではなく

「愛してる」という言葉がよくつかわれます。

親は子供たちから「大好き」「愛してる」と言われる前から

親は子供たちを愛していますし、子供たちが大好きです。


親が自分を愛してくれたという証拠は、

いま自分が生きているのが何よりの証拠です。

生まれてすぐに母親は乳を与え、オムツを換え、

少しでも具合が悪くなれば病院に駆けつけます。


夜泣きされ睡眠不足であっても、片時も赤ちゃんから目を離しません。

赤ちゃんは両親に絶対的な信頼を寄せています。


「神様は愛です」

愛は見ることが出来ませんが、

日常の生活から「愛(神)」を感じることが出来ます。


自分の家族、肉親、友人、隣人を慈しみ愛し、

「神様」を感じたいと思います。



自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。


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財貨で自分の命は救えない [キリスト教に関すること]

(イエスは)一同に言われた。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。

有り余るほど物を持っていても、

人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
それから、イエスはたとえを話された。
「ある金持の畑が豊作だった。

金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と

思い巡らしたが、やがて言った。

『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、

そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。

「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。

ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

しかし、神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。

お前が用意した物は、いったいだれのもになるか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

(ルカによる福音書12章15-31節)



貪欲は魂を悪魔に売り渡し、その奴隷となります。

貪欲は満足を知りません。


使いきれない財貨を持っていても、

欲しいものがあると殺傷してでも手に入れようとします。

手に入れた財貨を盗られないように

気が休まることがありません。


なのに 死ぬ時には1円も持っていくことが出来ないなんて

哀れです。


この世の命は有限です。

有限であるこの世にいる間に

永遠の命に役立つ宝を蓄えたひとは賢明です。


と解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。



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神輿 [キリスト教に関すること]

質問

(カトリック信者の)子どもにお神輿を担がせてもよいでしょうか。


応え

お神輿は、ご神体または御霊代の乗り物です。

それは、宗教的信仰の大将ですから、原則的には遠慮してください。

しかし、

町内の伝統行事の一役としてお神輿をになうように依頼されたときには、

近所付き合いとして協力してよいでしょう。

(カトリック中央協議会 カトリック教会の諸宗教対話の手引き)より



僕は自分の信じている宗教、信仰を大事にすることは当然ですが

他宗教のご神体を担ぐのは抵抗を感じます。


でも、そこで

「僕はカトリック信者ですから神輿を担ぐことはできません」

と断ったら、周りの人たちの雰囲気をこわし、

嫌な思いをさせることでしょう。


神輿を担いだからといって、自分の信仰がなくなるわけでもなく

神様は、皆と一緒に喜ぶようになさいと、許してくれると思います。


イエス・キリストは、

第一に神を愛し、

次に大事な掟は他人を自分のように愛することだと教えました。


地域の人たちと和気藹々と楽しむことには、

神様は決して怒らないと思います。

逆に、カトリック信者だからという理由でお祭りなどに参加しないと

「隣人を自分のように愛していない」とお叱りを受けるかもしれません。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。


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カトリック信者としてのお盆やお彼岸 [キリスト教に関すること]

質問

お盆やお彼岸のときには、

カトリック信者はどのようにすればよいでしょうか?


応え

8月15日は「聖母マリアの被昇天」を祝いますが、それとともに、

ほかの人たちの帰天を記念するのもふさわしいことです。

カトリックでは、神の愛の中には祈りを通して、

いつまでも亡き人たちと通じています。

お盆やお彼岸、また命日に故人と精神的一致を強め、

特に祈りをささげることは、たいへんいぎふかいことです。

(カトリック中央協議会 カトリック教会の諸宗教対話の手引)より



僕の周りではカトリック信者は僕だけで、

親類はそれぞれの宗教を信じています。


普遍的な宗教は魂の存在を認めていますので、

この世の有限的な命を全うしても、

来世での永遠の安らぎを願って祈ります。



宗教は違っても、
墓前で故人の永遠の安らぎを願い祈ることは
故人に対しての「愛」の現われではないでしょうか?

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自分の十字架を担う [キリスト教に関すること]

人の求めるものをすべて知っておられる父よ、

真実の生き方を問い続ける力をわたしにお与えください。

「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」

という主の呼びかけのうちにまことの光を見出すことができますように。

「聖書と典礼2020.6.28」集会祈願より


IMG_20200628_0001.jpg

十字架のイメージは苦しい磔の死刑です。

イエス・キリストは私たちのために十字架にかけられました。


集会祈願で唱えおわり思い浮かべたのは、

コロナ感染者のために、

我が身を顧みずに死を覚悟で働き続ける医療従事者です。


今日の十字架の意味は、

イエス・キリストが私たちのために御父に従い十字架にかけられたように

神様からみてよいとされる行動を、苦しいなかにも実行する、

ということだと思います。


知識や理論によって行動するのではなく、

見返りを求めない積極的な愛の言動を人にすれば

神様は喜ばれます。


医療従事者を励まそうと、種々多々のことがされています。

医療従事者にお弁当の差し入れや、マスクなどの手作りの医療用防護服、

ネット配信の演奏会なども神様が喜ばれる「十字架」です。


十字架は「苦しい、痛い」などの暗いイメージがありますが、

人のために苦しんだり、自己犠牲することによって慰められ喜ぶ人が居る、

その姿を見て自分も癒され、生かされている意義を見出すことが

「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」

ということだと解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。

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人の欠点は良く見える [キリスト教に関すること]

福音朗読  マタイによる福音書 7:1-5

(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、

どうして言えようか。

自分の目に丸太があるではないか。

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

そうすれば、はっきり見えるようになって、

兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

上記は今日のミサで朗読される聖書の一部でです。


SATAN_25.jpg


今朝のテレビで「マスク警察」なるものを放送していました。

マスクをしていない人に向かって

「コロナが流行ったのはお前のせいだ」などと

大声で侮ったり責めたりするする人を「マスク警察」と言うらしい。


今日の聖書の「人を裁く」というのは、

自分自身は社会の決まりごとをきちんと守り、

人に迷惑をかけずに正しく生きていると思い込み

人の過ちやあら捜しをする人のことを指している人だと思います。


「マスクをしていない」と大声でいうこと自体、

もしかしたら、注意した人がいくらマスクをしていても、

コロナウィルスを飛沫によって、ばらまいていることにならないでしょうか?


コロナ外出自粛要請などで、考えや気持ちが閉鎖的になり

普段ならば会社や友達と明るく過ごしていたのが、

内向的になり自分と人との相違を意識してしまう時もあるかもしれませんん。


その時に、人の欠点や批判する悪魔が忍び寄ってきて

普段は理性や常識が働き、

日常では起こりえないよいうな言動を起こさせます。


人の欠点は大きく見え、自分の欠点は全く見えなくなった時に

自分自身を正しく見つめ、

社会奉仕に役立つこと考えることが大事であると解釈しました。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。


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ご復活祭で受洗の還暦 [キリスト教に関すること]

今日は復活祭です。

コロナ騒ぎがなければ、

「イースターセール」でデパートや商店街は賑わっていたことでしょう。


世間一般ではキリストの誕生であるクリスマスが有名ですが、

キリスト教では、復活祭が典礼歴の頂点で、

キリスト教徒が、日曜日に教会へ行くのは、イエス様が日曜日に復活なさったからです。

カトリック教会では、約1年キリスト教に関して勉強し、復活祭に洗礼を受ける人が多いです。

しかし、今年はコロナ問題で、2月半ばころから全世界のカトリック教会は公開ミサ、

勉強会などの集会が禁止されましたので、今年の受洗者は僅少だとおもいます。


僕は、60年前の復活祭に洗礼を受けました。

今年で受洗還暦です。

1年間猛勉強しました。

キリスト教の教えを書いた「公教要理」という質疑応答式の本を丸暗記し、

どの質問を出されても答えられるようにしました。

受洗するのには、親の同意、品行方正、キリスト教の教えに熱心であるなどの

条件を満たしたうえで、公教要理の口答試験に合格しなければなりません。


司祭から質問される順番待ちは、一番緊張するときです。

受洗志願者は5人で僕が一番最後、皆は模範解答で合格のようです。

もしも落ちたらどうしようかと緊張が高まり、喉がかわきつばも出てきません。


遂に自分の番が来て、1問目は答えることができホッとしますが

次の質問が待ったなしで飛んできます。

最初の1問目ができたので余裕ができ。頭の中がスッキリしてきたせいか、

5問全部回答出来て合格しました。


聖書の中に真理を探し求めて60年。

私たちは神様の子、だから授かった命を大事にしなければいけない。

自分たちの体を大事にして、神様がこの世に遣わした使命を果たさなければいけません。

その使命の一つが思いやりだと思っています。

ですから不要不急の外出は避け、

周囲の人に迷惑をかけないことが、今は守るべき使命であり真理だと思っています。


受洗時にいただいた聖書、見返し書いたお祝いの言葉

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神の存在に疑念を抱くとき [キリスト教に関すること]

神を信じている人で、

神の存在に疑念をいだく瞬間に見舞われないような人はひとりもいない。

しかもそうした疑念は有害ではなく、

むしろ反対に、

れはわれわれをより高い神の理解へと導いてくれる。

(女子パウロ会刊「トルストイ ことばの日めくり」より)


親から厳しく躾や叱られた時に、本当に血のつながった親だろうか、

自分は捨て子、或いは貰いっ子なので虐めているんだ。

本当の親だったらもっと優しくしてくれる。


仕事や事業、受験などの失敗、大病、災難に遭遇した時に、

これほど一生懸命に努力して頑張ったのに、

なぜ自分だけがこんな目に合わなければいけないのだ。

「神も仏もない」と失望したことは、

多かれ少なかれ誰もがあると思います。


僕も例外ではありません。

本当は神様はいないんだ。

だから熱心に祈っても願い通りにならないのだ。

そして失望し、気持ちは暗闇の中に沈んでいきます。


親は子供を厳しく躾けたり、叱るのは

間違った方向に行かせないためであり

常に子供の傍にいて、正しい道をあゆませようとしています。


「神も仏もない」と思うのは、

自己中心的な願望が成し遂げられえない時です。

 

親は子供の希望するものが、

子供にとって、いま必要なのか、有益なのか有害なのかを判断します。

そしてその理由を親が子供に説明した時に、

不承不承でも子どもは聞き入れ、月日が経つにつれて、

親が子供の要求を聞き入れなかった理由を理解できると

その不承不承は親の有難味に変わります。


子どもは、自分が希望する物を買ってくれない、
行かせてくれない、やらせてくれない……。そしてふてくされます。

大人は、自己中心的な願望、欲望などが成し遂げられないと、

失望し自暴自棄になり、お酒に溺れたりするときもあります。


子どもは、欲しいものを与えてくれない親は、

単なるケチで喧しい大人としか思っていないかもしれません。

この世の中で一番自分を愛し大事にしてくれる親が

身近にいることを意識していないのです。


仕事や事業に失敗した時に「この世に神も仏もない」

と思わないでください。

神様は、

ご自分の子供である私たちのことをいつも見守ってくださいます。

なので自分たちの願望をいつ叶えればいいのか、

わかっていますのでその時期になれば必ず与えてくださいます。

イエス様は

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。
そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

(マタイによる福音書 7章 7-11節)と仰っています。


振り返れば、

祈願した多くのものが与えられていることに気づかされます。


自分の願いが叶えられない、と失望していることも神様はご存じです。

なぜ叶えられないのかを究明すれば、

神が必ず応えてくださり

その時に神との関係がより深くなります。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません

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高慢な祈り [キリスト教に関すること]

福音朗読  ルカによる福音書 18:9-14
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、

イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。

一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。

『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、

姦通を犯す者でなく、

また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、

胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、

あのファリサイ派の人ではない。

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


ファリサイ派の人々は厳格に律法(モーセの十戒)を守り、

それを教える立場にありかつ有力者なので人々にたいする影響力も大きい。

そのファリサイ派の人は、神殿で自慢げに自分は誰よりも信仰があつく

神の掟(モーセ十戒)を守っています、と胸を張って祈っています。


一方の徴税人(ユダヤ人でローマ帝国にかわり住民税や通行税を取り立てる人)は

頭をたれたまま「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。

しばしば徴税人は、決まり以上の税金を取り立て、

それを自分の懐に入れていたのでおなじユダヤ人から嫌われていました。

徴税人は、神に「自分を憐れんでください」とへりくだり

謙虚に自分の非を認め、赦しを請うています。

イエスは、徴税人の祈り方が正しいと仰っています。


今日の福音朗読で、ファリサイ派に属する自分を恥じました。

道内に越してきてから10年余り、毎朝2時間前後は、ネットでミサに与ったり

教会の祈り、十字架の道行き、聖書などを読み、祈りのうちに過ごしています。

それらを思い返していると

「それがどうした!」という声が聴こえました。

耳ではなく、心の中にです。


思い返すこと自体、自分は高ぶり鼻が高くなっていたのです。

それで「それがどうした!」と神様は言ったのです。

自分の心の中を開き、ありのままの自分をさらけ出して

神の憐れみを祈り求めればいいのであって、人と比較することはないのです。


マナセは父親の後を継ぎ王様になりました。

父親は神様に忠実でしたが、マナセは跡を継いだ途端に傲慢になり

神に反する行いをして神様の怒りをかい、罰として

敵国の捕虜にされてしまいます。

その時に今までに行ってきた悪事を反省し、次のように祈りました。

マナセの祈り


今、私は心の膝をかがめて

あなたの慈しみを求めます。

私は罪を犯しました。

主よ、私は罪を犯しました。

自分の不法を、私は認めます。



自分の恥ずべき行為に気付かせてくださった神に感謝。


自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。

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社会組織をよくする [キリスト教に関すること]

もし社会組織がよくないのを見て、これを矯正しようと思ったならば、

そのための手段はただ一つしかないと心得るがよい。

それはつまり、

すべての人間がいまよりよい人間になるようにすることである。

ところでみんながいまよりよい人間になるようにするために、

あなたの力でできることはただ一っ

――自分自身がすこしでもよい人間になることである。

(女子パウロ会刊「トルストイ ことばの日めくり」より)


会社の業績などで経営者、上司などをけなしたり、

悪口を言っていてもその会社は良くなりません。

なぜなら、自分たちも会社の一員であるからです。

社員も一丸となって会社を盛り立てていく努力が必要です。

経営者も上司も自分たちが、一般社員と同じように

会社から給与を貰って生活をしているいうことを

念頭に置かなければなりません。

社員があっての会社組織です。


聖書のなかに、

「我々に伝えられている古い歴史をひもとくまでもなく、

こういったことは、身近に起こっていることを、

たとえば権力を握る資格のない者の腐敗によって行われている

犯罪を調べてみれば、明らかとなるであろう。」
旧約聖書エステル記 E章 7節とあります。


約2500年前のペルシャ王国の
為政者たちは権力を得るに従って、

権力におぼれ国民を虐げたり他国を滅ぼそうと陰謀を謀ります。

それを知ったエステル王妃は夫である王に進言します。

王は、

よからぬ謀をしたり、不正を行う権力者を処刑、或いは降格し

かわりに能力あるものを昇格させます。


そして各州の長官や国民に書状を送ります。


内容は、恩人や自分を支えてくれる多くの人によって

名誉、権力を得たのにそれを忘れ、

ますます高慢になり恩人、国民に害を与える。
彼らは感謝の気持ちを忘れ、

公務に携わる人たち、友人などにそそのかされ

主権者を欺く行為で、主権者たちの誠実な善意を惑わした、

というのです。


これらの人たちは、権力を握る資格がなく

権力者がいくら隠そうとしても、調べればわかることで

これらを行っていると、人間も動物も住めない世の中になってしまう

と結んであります。


自分自身を良くしようとしない社会組織、また国家は崩壊してしまう

ということだと思います。




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