人の非難を好む [心の栄養]
なにゆえに人間はこのように互いに非難し合うことを好むのだろうか?
どんな人間でも他人を非難する際には、
隣人が非難されているようなことは
自分は絶対にやらないと考えているからである。
それゆえにこそ人間はまた、
隣人に対する悪口を聞くのが好きなのである。
(女子パウロ会刊「トルストイ ことばの日めくり」より)
風太郎は、ひとの噂や悪口を耳をダンボにして聞いてしまう。
聞いている間、自分には欠点などない完全な人間であるかのように
頷き相槌を打つ。
まるで美酒に酔っている気分になり、聞いている間は夢のように時が去っていく。
この美酒から酔いがさめると、
自分に当てはまる事を言われていることが、多々あると気がつく。
相槌は、自分自身の言動の非難に賛同したものだ。
心地よくひとの噂や悪口を聞いていた自分が恥ずかしくい。
気のせいか登別温泉街は閑です [温泉]
登別温泉街にある「温泉銭湯さぎり湯」に行きました。
入浴客は10人ほどで、閑散としていました。
いつもなら行列をしている「そば屋」もお昼時なのに並んでいる人もなく
ドラッグストアにも客はいません。
やはりコロナウィルスのせいなのでしょうか?
登別の語源はアイヌ語のようです
歴史ある温泉銭湯なんですね
ちょんまげ時代にもあったのかな?
雪除けに疲れました [心の栄養]
何も、そんなにむきになって降らなくてっも良いと思うのだが、
今朝も起きたら10cm程積もっていました。
10時現在でマイナス2度
家の前のおうちはもう雪除けを終わっていました。
和が愛車は、タップリと雪の毛布を被っています。
先週末までは、雪が無くて楽だと思っていたのですが
直近で35cmの積雪です。
直近で35cmの積雪です。
隣との通路は雪の山
日本26聖人 [キリスト教に関すること]
2月5日はカトリック教会では「日本26聖人」を記念します。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本二十六聖人 | |
---|---|
日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」[1]
(記念碑の建物は日本二十六聖人記念館) |
|
殉教日 | 1597年2月5日(慶長元年12月19日) |
殉教場所 | 長崎 |
処刑方法 | 磔 |
崇敬する教派 | カトリック教会、聖公会、ルーテル教会他 |
列福日 | 1627年9月14日 |
列福場所 | ローマ |
列福決定者 | ウルバヌス8世 |
列聖日 | 1862年6月8日 |
列聖場所 | ローマ |
列聖決定者 | ピウス9世 |
記念日 | 2月5日 |
1597年1月3日大阪・京都で捕えられた外国人のフランシスコ修道会宣教師6人、イエズス修道会宣教師3人、それに職業様々な日本人と子供の15人は耳を切り取られ、翌日4日は厳寒のなか見せしめのために、キリシタンが多い1200km先の長崎へ徒歩で連行されます。
途中で、同情した2人が殉教に加わり26人になりました。
長崎に着くと十字架の磔刑に処せらますが、いままさに槍に突かれようとしているときに見物人に向かって
フランシスコ会士パウロ三木は
「今このような時を迎えて、わたしが偽りを語るとは、どなたも思わないでしょぅ。
ですからあなたがたに宣言します。キリスト者たちが信じている道のほかには、
救いへ導く道はありません。キリスト教がわたしに、敵をゆるし、わたしに害を及ぼしたすべての人をゆるすように教えているので、関白殿と、わたしを死刑に処するすべての人を喜んでゆるし、キリスト教の洗礼を受けることを決心するように彼らに願います」(毎日の読書より)と言いました。
ですからあなたがたに宣言します。キリスト者たちが信じている道のほかには、
救いへ導く道はありません。キリスト教がわたしに、敵をゆるし、わたしに害を及ぼしたすべての人をゆるすように教えているので、関白殿と、わたしを死刑に処するすべての人を喜んでゆるし、キリスト教の洗礼を受けることを決心するように彼らに願います」(毎日の読書より)と言いました。
日本26聖人の十字架の磔ばかりでなく、日常的に十字架を背負って生きています。
友達からのあらぬ誤解による恨みや嘲笑などもそうです。
恨みには恨みを持って返しても解決にはなりません。
これは、神が与えてくださった十字架だと、赦し耐え忍ぶことも大切です。
神は、時機を見て相手にわからせてくれるでしょう。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。
辻褄を合わせようとしているのかな? [今日の天気]
先日までは、雪が少なくてらく(雪除けがないので)だね~!
が隣近所の挨拶でしたが、今月に入りその噂が雪雲に届いたらしく
ドカ雪が来ました。
昨日は、昼間に10cmほど降り、雪が止んだ4時頃に雪除けをしました。
関節なので1時間で済みました。
朝起きたら、またまた5cmほど積もっていたので、朝飯前の一仕事です。
気温はマイナス3度弱。
手袋をしていてもスコップを握る手はかじかんできます。
白鳥は10年前に越してきた当時は約50羽いましたが、
5羽になり寂しい
5羽になり寂しい
言葉の威力 [キリスト教に関すること]
正しき者の口は命の泉
悪しき者の口は暴虐を隠し持つ。
日本聖書協会 箴言/ 10章 11節
善人の口から発せられる言葉は、
希望・喜び・期待感・慰め・奮起・笑い・より良い絆など
まさに湧き出る命の泉です。
悪人からでる言葉は、この上もない、悪意・失望感・無力感を与えるなど
目に見えない最強の暴力です。
と解釈しました。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。
アロヨ温泉 [温泉]
宿泊所を兼ねない温泉場「アロヨ温泉」に行きました。
虎杖浜温泉街の温泉は海に近いせいか、肌が弱い僕は塩分などが含まれている温泉は、
肌に痒みを与えるのでしばらくは行っていませんでした。
今回で4回目です。
最初は、湿疹や痒みがあるのは温泉のせいだとは思っていませんでした。
2回目もやはり、痒みや湿疹がでましたが、それほど気に留めず
3回目には、回数券(11枚綴り)を買いました。
しかし、その3回目が今までよりも痒みなどは激しくイライラし
これは温泉の成分が自分には合わないと
買ったばかりの回数券は「アロヨ温泉」贔屓の人にあげてしまったので
7年振りです。
玄関前のフクロウ
入り口には「アヨロ温泉」のいわれ
売店には昆布が売っています
温泉館のまえのテントには
鮭の寒干しがぎっしりです
泉温は、漁師町にあるためか45度弱の浴槽もあり熱めです。
帰宅途中、顔がヒリヒリしていましたが、これといった痒みがまだりません。
誠意をもって話を聴く [キリスト教に関すること]
目くばせする者は人を苦しめ
唇の愚かな者は滅びる。
日本聖書協会 箴言/ 10章 10節
真剣に話をしているのに、
相手はよそ見したり、
容姿端麗なひとに眼をやったり
或いは仲間に目配せをして、何らかの支持を与えたりしたことを思い出す。
これは、真剣に話をしている人に対して、
屈辱を与えるばかりでなく大変失礼です。
口は禍の元、であってはならない。
一言一言誠意をもって応えることが大切、
と解釈しました。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。
2020.02.02.22.₀ [今日の天気]
今日は2020年2月2日
そして室温は22.2度。
暖房は20度で切れるようになっていますが、
壁の70%近くは窓ガラスなので、
陽が射してくるとポカポカと暖かく温度が上がってきます。
でも、先住民はこんなに寒くて大丈夫なの?
前に見えた大工さんも寒くないですか?
と言いわれす。
25度以上ないと寒くて仕方がないそうですよ。
悪は表ざたされます [キリスト教に関すること]
誠実に歩む人は安らかに歩み
道を曲げる者は思い知らされることになる。
日本聖書協会 箴言 10章 9節
神様ののぞまれることを行い、
周囲からも後ろ指をさされることのない人は
疚しいことがないので、日々の生活は幸せです。
しかし、隠れて悪を行う人は、
いつしかそれが表ざたにされ
赤恥をかくことになる、ということだと思います。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。
知識を増す方法 [キリスト教に関すること]
心に知恵ある人は戒めを受け入れ
唇の愚かな者は滅びる。
日本聖書協会 箴言 10章 8節
戒めや教えを受ける時に、
素直に受け入れる人は、生きていく知識がますます増していきますが、
反抗的な態度で授業受けたり、親の言うことをや先輩、上司の指導、忠告を
侮って聞いる人には、自分の人生の破滅しかありません。
ということだと思います。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。
正しき者と悪しき者 [キリスト教に関すること]
正しき者の頭には祝福があり
悪しき者の口は暴虐を隠し持つ。
正しき者を覚えることは祝福に
悪しき者の名は滅びに至る。
日本聖書協会 箴言 10章 6節-7節
日々の行いが、神様の望まれることをしている人には神様の祝福が豊かにあり
その結果、人々からも好感が持たれます。
その結果、人々からも好感が持たれます。
しかし、悪口、暴虐など、神様ののぞまれることと反対の行動をする人は
その行為が見つからないようにと、いつもビクビクしています。
その行為が見つからないようにと、いつもビクビクしています。
この世を去ってからも、
世のために尽くした人の名は、後世にわたって祝福され尊敬されますが、
悪を働いた人の名は忘れ去られ、滅んでしまう。
世のために尽くした人の名は、後世にわたって祝福され尊敬されますが、
悪を働いた人の名は忘れ去られ、滅んでしまう。
と解釈しました。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。