死は肉体を滅ぼすがいのちは永遠 [心の栄養]
死をどのように見るか――それによって、
その人の生き方は、形造られるのかもしれません。
多くの人は、死を恐れているのでしょうか。
その人の生き方は、形造られるのかもしれません。
多くの人は、死を恐れているのでしょうか。
しかしかつて、マザー・テレサは、こう語りました――
「もしも、死は神の家に帰ることだと正しく説明されれば、
死を恐れることなどなくなるのです。」
彼女が語る「神の家」とは、いったい何なのでしょうか。
またこの安らかさは、いったいどこから来るのでしょうか。
「もしも、死は神の家に帰ることだと正しく説明されれば、
死を恐れることなどなくなるのです。」
彼女が語る「神の家」とは、いったい何なのでしょうか。
またこの安らかさは、いったいどこから来るのでしょうか。
カトリック教会の葬儀ミサにおいて、次のような祈りが唱えられます。
「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、
死を悲しむ者も、
とこしえのいのちの約束によって慰められます。
信じる者にとって死は滅びではなく、
新たないのちへの門であり、
地上の生活を終わった後も、
天に永遠の住みかが備えられています。」
つまり、この世での死は、
生命の終焉ではあってもいのちそのものの終わりではなく、
一つの通過点にほかならない、ということでしょうか。
(心のともしび 竹内 修一 神父)より
「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、
死を悲しむ者も、
とこしえのいのちの約束によって慰められます。
信じる者にとって死は滅びではなく、
新たないのちへの門であり、
地上の生活を終わった後も、
天に永遠の住みかが備えられています。」
つまり、この世での死は、
生命の終焉ではあってもいのちそのものの終わりではなく、
一つの通過点にほかならない、ということでしょうか。
(心のともしび 竹内 修一 神父)より
人の死の表現として
他界
あの世
極楽往生
昇天
帰天
などといいます。
円覚寺の管長日記に死について次のようにあります。
他界
あの世
極楽往生
昇天
帰天
などといいます。
円覚寺の管長日記に死について次のようにあります。
死とは何か | 臨済宗大本山 円覚寺 (engakuji.or.jp)
「赤い風船が針で刺されて破れても心配はいらない。
中の空気は外に出て行き、お空の空気と合流するだけ。
いのちも同じで人は死んでも終わりにならない。
大きないのちと合流しまた新しいいのちが生まれる。」
という話しだったのでした。
そこで和尚は
「人が死に直面したとき、いのちとは何かを真剣に考える。
死は肉体を滅ぼすがいのちは永遠ということに気づく人も多い。
すると死の恐怖感から解放されるんです。」と書かれていたのでした。
古いノートに書き写した話です。
肉体と霊魂が一体の時に善行をしておかないと
死んでからは出来ません。
あの世で神様に喜ばれるお土産を
この世で沢山準備したいと思います。