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静かな微笑み [心の栄養]

静かな微笑み
『原爆の子』の映画を作成した、新藤兼人監督から終戦後私が聞いた話です。
広島市には、1951年ごろ、20歳前後の青年男女が非常に少なかったのです。
あの原爆の日、女学生であり、中学生であったこの年齢の人たちはほとんどが
勤労奉仕に動員されていて、無残にも原爆の犠牲になったのです。
この人たちは一様に皮膚を焼かれ、砂つぶのようなガラスの破片を浴びて、
誰もが火傷し、あるいは皮膚が裂ける傷を負いました。
私たちは『原爆の子』の映画にこうした被爆者のお嬢さんたちに出ていただきました。
ロケの終わりに、座談会の席上、明るい顔で話されるお嬢さんたちの姿に
頭が下がる思いがしました。
これはその中の一人の話ですが、火傷のために顔の皮膚がひきつってしまったのを、
初めて鏡に映して見たとき、あまりにもひどいケロイドに驚き
「死のう」と覚悟したそうです。
しかし、おそるおそる繰り返しては見る鏡の中に、母のしのび泣く姿を見たとき、
死を思い留まる決心を見い出したということでした。
「母のために生きよう……母を悲しませては」
と思い返すうちに、しっかりとした生きる自信を取り戻したということです。
そばで聞いていただけで、胸のつまる思いがしました。
私はカメラを向けたときの、不思議にお嬢さんたちの静かな微笑みに、
強い圧迫を感じました。
あとで彼女達の険しい心の旅を聞いて、
初めてその原因が分かったような気がしたのでした。
苦難を越えた微笑みには、本当の明るさがある。
美しさがある。
皆さん、私達も人生の困難に直面するとき、それを乗り越えるため
の努力を惜しまないようにしましょう。

(ドン・ボスコ社刊「落ち葉」より)


困難にぶつかる時「なぜオレだけが、なぜなんだ」と数えきれないほど思った。
困難からの逃げ道に「死」がある。
風太郎も漠然と死を考えたことがある。
でもそれは宗教的に許されることではないので、なんとか困難から逃れる道を探した。
道を探す、探す時間が解決してくれた。
誰となく手を差し伸べてくれるひとがいたのだ。
それは物質的なことに限らない。
「何か私にできることがあったら言ってネ」
その一言が困難から立ち直るきっかげができるかもしれない。

今でも原爆で苦しんでいる人、大災害で生活の場を失った人が大勢いる。
そいう人たちにとって苦労した人の励ましととほほ笑みは、
大きな救いになると思う。

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マチャ

困難を乗り越えた方の強さには感服します。
そして、その人の姿を見た誰かが、それをきっかけにして
立ち直っていく・・・そのような連鎖が起きると良いですね。
by マチャ (2012-08-23 09:28) 

風太郎

そうですね。こういう連鎖反応が起きればいいですね。
by 風太郎 (2012-08-23 10:00) 

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