信仰と行い [心の栄養]
わたしの兄弟たち、
自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。
満腹するまで食べなさい」と言うだけで、
体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブの手紙 2章14-17、26)
去年の12月、びっこを引いている80代半ばの神父に
「足どうなされたのですか?」と訳を聞いてみたら、
引きこもりがちな人がいて、人に会うのが嫌で買い物にも滅多にいかない。
それで月に数回訪問し、不足している日用品を差し入れしてくる。
この日は灯油がなかったので、
灯油を入れたポリタンクを2個運んだので膝の痛みが悪化してしまったらしい。
「この引きこもりの人を心配してくれる人はいるけど、
世話をしてくれる人がいない。
でも大丈夫、痛みはすぐに無くなるから」と微笑んだ。
死とは、肉体と魂が離れることだ。
行いを通して、生きている自分を表現したいと思う。