真の平和は相互の信頼で構築される [心の栄養]
平和は、
一人ひとりの人間の心の平和、
一人ひとりの人間の心の平和、
そして人と人との平和な関係にこそあると言わなければなりません。
この平和な関係は、
互いに相手を人間として尊敬かつ信頼し、
自由な心で正しく行い、
真実を語り、
自分と同じように相手を愛することによって作られます。
それは、
暴力や武器によっては決して作られず、むしろ破壊されます。
後は暴力の悪循環が生まれるだけです。
武力による抑制も平和の条件ではなく、
真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則を守るべきなのです。
(心のともしび 高見 三明 大司教)より
自由な心で正しく行い、
真実を語り、
自分と同じように相手を愛することによって作られます。
それは、
暴力や武器によっては決して作られず、むしろ破壊されます。
後は暴力の悪循環が生まれるだけです。
武力による抑制も平和の条件ではなく、
真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則を守るべきなのです。
(心のともしび 高見 三明 大司教)より
世界の平和を築くためには、
より強力な武器を持たなけれべならない、と
思い込んでいる為政者がいる。
まさにばかげた偶像礼拝者である。
過去を振り返ってみても、戦争で真の平和を得たことはない。
武器は人間関係を壊すに過ぎないことを
武器を頼りとする偶像礼拝者は悟るべきです。
感謝をすると幸福になる [心の栄養]
感謝の念は、人の心の奥から自然に湧き上がって来る。
それは、与えられた恵みを知って、
喜び、そして謙虚になる瞬間だ。
だが、強制されて、感謝を表さなければならないとしたら、
これほど重い仕事はない。
感謝力とは、人間を幸福にする力である。
感謝の言葉を考えることで、
日々の中に、
嬉しかったこと、
誇りに思っていること、
大切だとわかったことを見つけていたのだ。
幸福に恵まれたから、感謝するのでは、
感謝力は働かなかっただろう。
人は、感謝をすると幸福になるのである。
幸せの種子は、探すほど見つかり、
数えるほど増えていくような気がする。
(心のともしび 岡野 絵里子)より
それは、与えられた恵みを知って、
喜び、そして謙虚になる瞬間だ。
だが、強制されて、感謝を表さなければならないとしたら、
これほど重い仕事はない。
感謝力とは、人間を幸福にする力である。
感謝の言葉を考えることで、
日々の中に、
嬉しかったこと、
誇りに思っていること、
大切だとわかったことを見つけていたのだ。
幸福に恵まれたから、感謝するのでは、
感謝力は働かなかっただろう。
人は、感謝をすると幸福になるのである。
幸せの種子は、探すほど見つかり、
数えるほど増えていくような気がする。
(心のともしび 岡野 絵里子)より
「ありがとう」とお礼をいうと
気持ちが明るくなります。
十円玉拾いました [いろいろな思い]
雪解けの水溜まりからどす黒くなった10円玉を拾った。
雪に埋もれていたのが、この数日気温が高かったので姿を現したのだろう。
それにしても雪焼けでもないだろうにどす黒い。
お金を拾うのは久しぶりで、前回拾ったのはいつ頃だったのかを思い出せない。
今は買い物でもクレジットカード決済する人が大半で、
現金はほとんど使わない。
使うのは子供か数少ない大人たちだ。
買い物したあと精算所で
前の客が財布から紙幣や硬貨を出している姿を見るともどかしい。
滅多にないが、飲食店や小売の中には現金のみしか取り扱わない店もある。
10円玉を見つめていると時代が変わったことをしみじみ感じた。
買い物に行くと能登半島地震義援金箱が口を開けている。
10円玉を金額の大きい硬貨にして義援箱に入れてこよ。
自分を見失わないように生きる [心の栄養]
水は、
柔軟に自らの形を変え、
他と争うことなく自らは低きに留まり、
それでいて、
硬いものを穿つ強さも秘めています。
柔軟に自らの形を変え、
他と争うことなく自らは低きに留まり、
それでいて、
硬いものを穿つ強さも秘めています。
この柔軟さは、
しかし、
日和見的な、
あるいは単なる迎合的なあり方ではありません。
むしろ、
自分を見失うことはないものの、
臨機応変にその時々の状況に相対していく、
しなやかさです。
しかし、
日和見的な、
あるいは単なる迎合的なあり方ではありません。
むしろ、
自分を見失うことはないものの、
臨機応変にその時々の状況に相対していく、
しなやかさです。
私たちは、
いったい、
どのようにしたら、
このような生き方ができるのでしょうか。
風に吹かれながらも、
それに流されることなく、
かえってそれを味わいながら、
その流れに身を任せていく、
そのような生き方です。
(心のともしび 竹内 修一 神父)より
いったい、
どのようにしたら、
このような生き方ができるのでしょうか。
風に吹かれながらも、
それに流されることなく、
かえってそれを味わいながら、
その流れに身を任せていく、
そのような生き方です。
(心のともしび 竹内 修一 神父)より
どのような立場に置かれても
自分を見失うことなく
謙虚に神様の道を歩んでいきたいです。