必ずしも自分で選んだといえない [心の栄養]
自分で選ぶときにも、
必ずしも自分で選んだといえない部分がある。
それは、どんな選択であっても、
正しい選択をしたと思えるときには、
自分の心の奥深くにある何か自分を越えたもの。
清らかで美しいもの、
気高くて尊いものに向かって自分を駆り立てる何かによって、
動かされていた気がするからだ。
必ずしも自分で選んだといえない部分がある。
それは、どんな選択であっても、
正しい選択をしたと思えるときには、
自分の心の奥深くにある何か自分を越えたもの。
清らかで美しいもの、
気高くて尊いものに向かって自分を駆り立てる何かによって、
動かされていた気がするからだ。
それを「良心」と呼んでもいいかもしれないが、
わたしはキリスト教徒なので、
それをわたしのうちに宿った「神の愛」と呼びたい。
わたしはキリスト教徒なので、
それをわたしのうちに宿った「神の愛」と呼びたい。
そうすると、結局、自分で選んだようでいて、
導かれていたということになる。
導かれていたということになる。
これからも、
自分自身のうちなる神の声に耳を傾けながら、
自分の道を選んでいきたい。
(心のともしび 片柳 弘史 神父)より
自分自身のうちなる神の声に耳を傾けながら、
自分の道を選んでいきたい。
(心のともしび 片柳 弘史 神父)より
ある日曜日のことだった。
石狩地方に居たので近くの教会でミサに与った。
聖堂の入り口に献金籠があり、
小銭入れの財布から100円玉を選んで籠に入れた。
籠に入れた硬貨を見て「あれ~!」とけち臭い叫びを心の中であげた。
まぎれもなく500円だったのだ。
そんなことがいままでに数回あった。
自分で100円玉を選んだが
神様は500円玉を握らせたのだった。