規則の本質 [心の栄養]
イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、 モーセの座に着いている。
3だから、彼らが言うことは、 すべて行い、また守りなさい。
しかし、彼らの行いは、 見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
4彼ら は背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、
5そのす ることは、すべて人に見せるためである。
6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7また、 広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8だ が、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。
9また、 地上の者を『父』と呼んではならない。
10『教師』 と呼ばれてもいけない。 あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11あなたがたのう ちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶ る者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(マタイ23章1-12節
モーセは神様から十の戒めを石板に書いたのを授かりました。
それには、人として守るべきこが記してあります。
神様を敬い、神様の名を妄りに利用してはならない。
父母を敬い、殺人、人のものを盗んではならない、などです。
ファリサイ派の人はそれを厳格に守っているので、
モーセの座に着いているとイエス様は言っています。
しかし、厳格に守らせるために、細かな規則を作りました。
今でもユダヤ教を信じている人の中には、
安息日(休日)には労働をしてはならないという戒めを守り、
エレベーターのボタンを指ではなく口や顎で押す人がいるそうです。
腕を使うのは労働とみなされているのです。
十の戒めが、ファリサイ派の人々によって700余りの戒めになっている
ということですので、守るのは大変です。
イエス様は、十戒を「神様を愛し敬い、隣人を自分のように愛しなさい」
と簡潔に教えたので、ファリサイ派の人々から妬まれ、
十字架による死刑という結論ありきの裁判で磔になりました。
自分に置き換えてみたら、自分でもファリサイ派の人々と同じことをしている。
通学時の子ども達には、信号をよく見て安全を確かめて渡りなさい、と
言っておきながら、時々信号を待つのが面倒になり赤信号を無視したり、
横断歩道でないところを渡ったりしている。
規則は人に押し付けるのではなく、
自分が率先して守るべきものである、と反省させられました。