行いを欠く信仰は死んだもの [心の栄養]
行いを欠く信仰は死んだもの
14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、
行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
16 あなたがたのだれかが、彼らに、
「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、
体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 信仰もこれと同じです。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。
行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。
そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、
息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、
信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
23「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、
彼は神の友と呼ばれたのです。
24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、
信仰だけによるのではありません。
26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブの手紙第2章14~26節)
アブラハムが100歳、妻のサラが91歳の時に生まれたのがイサク。
高齢になってから神から授かった子ども。
しかしイサクが少年になった時に
神様はイサクを生け贄として私にささげよ、と告げます。
アブラハムは、高齢になってから神様から授かった我が子を
生け贄としてささげることは納得いかなかったことでしょう。
しかし、神様の命令ですからそれに従うために
祭壇を築き生け贄として捧げようとした時に
神の使いが現れアブラハムに「お前の信仰の深さが分かった。捧げる必要はない」
と言われ生け贄を止めさせます。
当時の宗教の中には、子供を神に生け贄と捧げる習慣があったそうですが
ユダヤ教では禁止されていました。
風太郎が冬の豪雪日にミサに行く時間に
近所の人が総出で雪かきをしている時があります。
その時には、心の中で
「神様ミサに行かれません。今日は皆と雪かきをすることがみ旨に叶う
ことだと思います」
謝り、雪かきをします。
人々は行いを見ますが、神様は心の中を見ておられますので
雪かきをしながらでもお祈り(神様との会話)はできますから。
自分の解釈や感想であり、キリスト教の教えを説くものではありません。
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