国同士の関わり合い [いろいろな思い]
写真機の愛器が思うようにシャッターが切れなくなってしまった。
買ってからもう10年以上になるから、
寿命かもしれないので新しく買い替えようと
大型店舗のK◎電機へ行ったら
店員に「一眼レフカメラですね。ありません。
中国がコロナ禍でロックダウンしていて、
必要な部品が入ってこないので組み立てができないんです」
と言われた。
ここで思ったことがあります。
食料品のチーズや小麦粉、卵、魚介類の値上がり、
それにガソリン等の生活必需品の値上がりが鰻登りです。
今の世の中は、それぞれの国の産業が分業化になていますので、
一国でも災難に会うと、世の中の動きが停まってしまいます。
人が一人では生きていけないのと同じで、
自国だけでは生きていけません。
世界中がお互いに関わり合って日々の生活が成り立っています。
「互いに愛し合いなさい。
わたし(イエス・キリスト)があなた方を愛したように、
あなた方も互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)と聖書にも書いてあります。
愛するというのは、
誰もが関わり合いながら生きているので
お互いの国、お互いの国民を尊重し大切にしなければいけない
ということだと思います。
something of himself [心の栄養]
ひとりの紳士がわたしのところにやってきて、
かなりの額の寄付を申し出ました。
その寄付をくださってから、彼はこう言いました。
「先ほどのは、わたしの外的なものですが、
こんどはわたし自身を与えたいと思います。」
そして、彼は定期的にカリガートの『死を待つ人の家』にきて、
病人や死んでゆく人々の相手をし、
彼らの体を洗ったり、
ひげを剃ってあげたりして、手伝っています。
彼は自分自身の何かを与えたかったのです。
そして今、彼はそれを与えています。
(女子パウロ会刊「マザー・テレサ日々のことば」より)
イエス様も「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(ヨハネ15章17節)
と仰っています。
寄付行為などの外的な人助けはできても、
見ず知らずの人の死に行く人の身体を洗ったり、
身だしなみを整えたりはなかなか出来ません。
無私無欲で相手に尽くすということが
互いに愛し合うということなんですね。
dignity [心の栄養]
貧しい人たちを尊敬し、尊重し、愛し、
貧しい人たちに心から奉仕すること。
よくわたしは、彼らこそ、
わたしたちからの大きな感謝を受けるべき人々なのだと思うのです。
貧しい人たちは、
彼らの信仰、忍従、苦しみへの我慢強さを通して、
わたしたちに教えてくれます。
彼らがわたしたちに、
お世話をすることを許してくれているのです。
わたしたちは、貧しい人たちに、
単なる同情やあわれみではなく、
思いやりをもって接するようにすべきです。
(女子パウロ会刊「マザー・テレサ日々のことば」より)
ウクライナで戦禍にあわれている人たちを
貧しい人たちに置き換えてみました。
ウクライナの周辺の国の人たちは
戦禍を逃れてきた夥しいウクライナ人の世話をしています。
遠く離れた風太郎には寄付しかできません。
戦争の奴隷になり、武力行使に縛られている人たちが
早く兵力よりすがる心から解放されて、
平和を取り戻すことができるよう祈っています。
our daily bread [心の栄養]
(神様に)何をお願いしましょうか?
「日ごとの糧を、今日もわたしたちにお与えください。」
何が日ごとの糧なのでしょう?
それは、平和と愛です。
体に必要な食べ物だけではなく、
魂が生きるために必要な食べ物があるのです。
人は、体の食べ物だけで生きているのではありません。
だれかのために祈るまえに、
まず自分の生活を祈りにしましょう。
祈りが、わたしたちの力であるという、
よい知らせを世界に広めていきましょう。
(女子パウロ会刊「マザー・テレサ日々のことば」より)
糧というと思い浮かべるのは食糧です。
お腹が空いていたのでは満足に動けませんし
食べるものがないと生きていけません。
食べて生きていくだけでしたら、動物と同じです。
ひとは一人では生きていけません。
助けられたり助けたりで
お互いに助け合って生きていくことができます。
その力が心の糧で
祈りをもって心の糧を願いたいと思います。
two-way process [心の栄養]
おうちで、五分でいいですから、祈ってください。
祈りとは、ただ神に語りかけることなのです。
神がわたしたちに語りかけます、
わたしたちは耳を傾けます。
わたしたちが神に語りかけ、
神は聴いてくださいます。
祈りとはふたつのプロセス、
心から語りかけること、そして耳を傾けること。
(女子パウロ会刊「マザー・テレサ日々のことば」より)
聖書にも下記のように書いてあります。
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩編 6-10 )
自分の欲望的な願いは聞き入れてもらえないかもしれません。
例えば合格祈願、出世祈願、富を願う祈願 公序良俗に反すること
相手を呪うことなどです。
個人的な祈りには決まった祈りはありません。
何故なら神様とのお話だからです。
希望校である某大学に受かるように祈ったのに、不合格という場合に
「友達との付き合いも減らし、夜遅くまで受験勉強していたのに
不合格になったのはなぜなのですか?」
と神様に問いかけるのも立派なお祈りだと思います。
問いかけたら、
雑念を取り去って静かに神様に耳を傾けてみましょう。
もしかしたら、神様はすぐにはお答えにならないかもしれませんが
必ず神様の答えを感じる時が来ます。
神様は、私達が何が不足し、何を欲しているのかご存知で
時間を経ても最良のものを与えてくださるからです。
自分の無力さと無知を自覚する [心の栄養]
他人を説得しようなんて思うとき、
自分の無力さと無知なることを
反省する方が先である。
共伸出版刊 吉田良夫著「仏教仏陀のことばより」
聖書にも次のように書かれています。
聖書にも次のように書かれています。
(マタイによる福音書 7章 3~5)
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、
『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、
どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
他人の欠点、落ち度を必要以上に見つけ、
他人の欠点、落ち度を必要以上に見つけ、
それを周囲の人に誇らしげに吹聴している人を見かけるが、
聞いていている方も不愉快になる。
イエス様はそういう人たちを偽善者だと言っています。
先ずはそういう話をすること自体、
ひととして無知であることに気づくことが大事だと思います。
真理について [心の栄養]
人びとが真理に同意しないのは、
その真理が提示された時の形に
なんだか
自分がばかにされたような気がするためである場合が多い。
けんかを始めることは簡単にできる、
だが燃えさかっている火のように、
それを消すことはなかなか困難なものである。
(女子パウロ会刊「トルストイ ことばの日めくり」より)
自分の真理と他人の真理が異なることがある。
その時に自分の真理を無理強いすると諍いのもともになる。
他人の真理もどういう心理で言っているのか
聞く耳を持つ必要があるということでしょう。